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オマエら、ぬこたんを軽く見ない方がいいぞ。ぬこたんはオマエらを軽く見てるぞ。

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2006年2月16日

エピソード14:四匹が三匹に

イチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)が死んだ。
交通事故である。

イチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)は長男で、身体が人一倍大きく、人一倍食いしん坊だった。
人なつっこく、誰彼となくなついて、みんなを幸せにした。

ミルクをほ乳瓶で与えていた頃、最後までミルクを求め、最後まで飲んでいた。
その飲みっぷりがまた見事で、後日風に言えば「イッキ!イッキ!」のバックコーラスが似合いそうだった。

トイレを最後まで覚えられず、いつも洗面所のシンクの上にモリモリといたしていた。
そのため父親のトールハンマーを幾度となく喰らい、それがその後の彼の知能を決定づけてしまったのではないかと思える。
一度などは、頭蓋骨が砕けたのではないかと思えるほどの一撃を食らい、俺は思わず父親に「ひどすぎる!」と食って掛かり、つかみ合いの喧嘩をしそうになった。
この一件は、俺と父親の長年の深いミゾの原因の1つとなった。
今思えば、「シンクの上でいたす」のは、水洗トイレの思想ではなかったのか、と。
もしかしたらイチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)は、実は賢かったのではないのか?と。

その後彼は「デブ、馬鹿、天然」という独自の世界を築き、みんなに愛されていくわけだが、ウチへ来て1年とちょっとで冷たくなってしまった。
近所のおじさんがウチから50m程離れた県道で死んでいたイチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)を発見し、その亡骸をウチへ運んでくれた。
夕方だった。
そのおじさんに対応したのは俺だった。

耳から一筋の血が流れ、そのほか身体に異変は見られなかった。
が、確実に命は失われていた。

目を閉じて動かぬイチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)に接して絶句し、眼を見開いて動けなかった俺に対し、おじさんは「かわいそうなことやな」と言い、涙ぐんでくれた。
俺的には大嫌いなおじさんだったが、この瞬間に全ての評価は逆転した。

硬直しているイチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)の亡骸を抱いて、台所へ。
夕食の準備をしていたおふくろは、包丁を取り落として、かがんで泣いた。
帰宅した親父は「馬鹿が!!ぼけーっと道歩いてるからこうなるんだ!!」と叫び、俺の神経を逆撫でした。
夜遅く帰宅した姉は号泣した。

他の三匹は、居間に安置されたイチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)の亡骸に集まり、みんなでにおいをかぎ、みんなでイチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)をなめて(清めて)あげていた。

俺は不思議と涙は出なかった。
布団に入ってから、イチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)と過ごした数々の思い出をたどったが、涙が出なかった。
俺は冷たい人間なんだと自分を恨み、きっと親父の冷たい血が流れているからだと親父を恨んだ。

翌朝起きて居間へ行くと、安置されていたイチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)の亡骸がない。
おふくろに訊くと、親父が埋葬したとのこと。
外へ出て、庭の北はずれを見ると、親父がこちらに背を向けてたたずんでいる。
しばらく家の影から様子を観ていると、手でしきりに眼をぬぐっている。
俺が近づくと、親父は俺の姿を見るなり、「馬鹿が!!ぼけーっと道歩いてるからこうなるんだ!!」とつぶやき、家へ戻っていった。
親父の目は潤んでいた。
常に涙を見せず、弱音を吐かない親父だった。
だから俺は、いつもギリギリのところで、親父への決定的な反発には至らなかった。
手を合わせてイチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)の冥福を祈った。

イチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)がいなくなった事実に慣れるのに、数週間を要した。
食卓に魚が乗っても、「やあ。天気良かったね。俺なんかねむくてねむくて。明日も晴れだとイイね。魚もらいますね。」とごく自然に食卓に上って堂々と魚を食う猫はもういない。
こたつの中で堂々と寝転がり、みんなに足で邪険に蹴られ、それでも人なつっこく足にまとわりついて寝ていた猫はもういない。

イチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)がいない生活に慣れ、イチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)のことを思っても悲しみの感情が次第に薄れていった。

イチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)の死から約2ヶ月後の8月(夏休み)。
受験勉強とやらをそろそろしなければなと思い立った俺は、汽車で1時間ほどのところにある都会であるT市まで行った。
問題集や参考書を買い求め、駅で汽車を待つ俺の視界に、イチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)そっくりのブチ猫が現れた。
「イチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)そっくりだなぁ」と思い懐かしさに頬が緩んだ。
つい「イチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)!!竹輪喰うか?」と口から出そうになった。
その瞬間、イチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)はもういないということが実感された。
目の前にいる猫はイチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)ではなく、イチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)がいるはずもなく、イチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)とはもう二度と会えないと、その事実が実感された。
気がついたら涙が出ていた。
周りに一杯の人がいるのに、そんなことには構わず涙が出た。
嗚咽しそうになり、トイレに駆け込んで、声を出して泣いた。
生まれて初めて号泣した。
このとき俺は、イチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)の死という事実を正面から受け止めることが出来た。

前の猫が死んだときも、その前の猫が死んだときも、九官鳥が死んだときも、犬(チロ)が死んだときも、俺は泣けなかった。
何となく寂しくなり、すぐにその喪われた状態での生活に慣れた。
俺にとっての死は喪失に過ぎなかった。
慣れることが出来るものだった。

イチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)の死で、俺は死の意味を理解した気がする。
二度と会えないことの意味を知った気がする。
そして、死は死んだ本人よりも残されたものに対して、多くの傷と悲しみを与えることを知った。

その後しばらく、俺は好きなモデルガンを手にすることができなかった。
いつも銃口の向こうに、憎い独逸兵がいて、彼らは俺の仮想世界で常に斃されるべき悪人だった。
だが彼らにも家族があり、家庭では良き父親、良き兄であることがこのとき急に理解された。
イチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)の死によって、俺は仮想世界の中であっても、もはや誰に対しても銃口を向けられなくなった。
このときから俺の本当の意味での戦争追求が始まった。

未だにイチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)は夢で俺に会ってくれる。
相変わらずのデブで馬鹿なのだが、幸せそうな顔してひなたぼっこしてたり、竹輪を食っていたりする。
イチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)が夢に出たときには、必ず目が覚めて、自分が泣いていることに気づく。
「なぜもっと竹輪をやらなかったのか」「なぜもっと刺身を食わせてやらなかったのか」後悔ばかりである。
既に死んでいるが故に、永遠に断ち切ることができない後悔ばかりである。
俺は自分が死ぬまで一生、イチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)に対する後悔を持ち続け、悲しみ続けるのだろうなと思う。
でも、後悔して悲しみ続けることよりも、イチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)を完全に忘れてしまう方が恐ろしい。
後悔や悲しみがあっても、少なくともイチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)に夢の中で出会えるし、イチ(長男、ブチ、デブ、馬鹿、天然)はいつも夢の中では幸せそうだ。

 

次回は三匹が二匹になった話をする。