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てっぽうのページ

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反論-02

 

 

2006年10月18日に来たメールへの反論

来ました来ましたDさんからの反応。反応が得られるとは思ってなかったから、嬉しいです。ただ、メールのアドレスとHNが前回と違い、万が一ではあるが「他人の騙り」の可能性もある。文体は以前と同じようなのだが、改行が少し違うようでもあるし・・・。まぁ、確認のしようがないから、同一人物と仮定して対処しよう。

前回と同じく、メールの文章をそのままは掲載しない。青字部分はDさんのメールの内容を俺の言葉に直したものだ。

(1)大戦モノ収集について

俺の現在の収集の中心は「大戦モノ」である。60年以上前に終わった世界大戦前後の銃である。これに対してDさんはこう主張する。
何百万人もの犠牲者を出した第二次世界大戦。その悲惨な戦争で使われた銃を集めて眺めているなど、神経を疑う。ユダヤ人の皮膚を電灯の笠にしていたナチスの軍人と同じ趣味のようだ。そんな血塗られた銃など、自分は見るのも嫌である。現代の銃は、法と治安と自由を守るためのものであり、大戦中の銃とは違う。
大戦中の銃を集めるのは悪趣味である、と。現代の銃ならイイ、と。

これに対しては、反論する気にもなれないので、放置したい。現代の銃が正義の銃だとは知らなかった俺が悪いのだろうなw

と、前回俺は反応したのだが、これに対して次のようなご意見を頂いた。

戦争の悲惨さは、今更語る必要もないことだが、それを今の時代にあがめる必要があるのか。兵士全てが残虐行為をしたわけではないし、そもそも兵士に行動の選択なんて自由はなかった。同じく、武器にも罪はない。しかし、誰にとってもあの戦争は忘れたいもののはずだ。それを、当時の軍服来て模造銃持って、戦争賛美としか思えないような行動を取る人がいて信じられない。サバゲーのようにスポーツと割り切ったほうがいい。悲惨だった時代の姿や武器は止めた方がいい。

前回にも言ったが、俺は「現代の銃が正義の銃だとは知らなかった」。ベトナム戦争、アフガニスタン紛争、中東戦争、湾岸戦争、イラク侵攻、これら全て「記憶の外に置く必要がない」と、Dさんは仰るのか?「第二次世界大戦はダメだが、これらの戦争や紛争はいい」と?それって「自分の国・・・日本が被害を受けていないから」って意味?

あるいは、明治以前の日本は「悲惨じゃない」と?日本刀で殺し合うのは悲惨じゃないからいい、と?じゃないと剣道なんか「悲惨な時代の記憶を呼び覚まさないように禁止」だよ?

つかさぁ、てっぽなんて興味のない人たちにとっては、「大戦モノ中心の人」「現代中心の人」どちらも等しくキモいんだと思うよ。自分の手にはM4持ちながら、俺が手にしている三八式を指さして「それ、ヤメれ!」と?

やっぱ、反論するんじゃなかった。面倒になってきた。議論が成立するためには、少なくとも双方の根底に「共通基盤」が必要だ。通常は「常識」が共通基盤だ。が、この共通基盤たる常識自体を議題とすると、議論は不能だ。Dさんとは、共通基盤たる常識の確認をしない事には、議論は無理だな。

何故俺がサバゲーをしないのか。これ以上「俺がサバゲーを否定している」という誤解を生まないよう、今回はこれを正確に語っておく。原因は3つ。

(1)初回の印象が悪すぎた

はじめて誘われて某チームへ臨時入隊した。気さくな人たちばかりで、事前のレクチャも分かりやすく、必要経費は全て「均等割」で公平だった。対抗戦ではなく、チームを二つに分けての練習戦だった。ゲーム自体も結構面白かった。ゲーム後の親睦会も楽しかった。が、嫌なことが二つ発生した。

俺は一人で参加したから、自分で運転してフィールドへ行った。そこで親睦会。酒は苦手だが、そういう問題ではなく、帰路は自分で運転だから、酒は断った。が、断っても断ってもしつこく勧めてくる。そのうち、「新兵は上官の言うことを聞け!」と強制。俺が酒を飲まないことを気にくわない人が、チームの半数ほどだった。残りの半数ほどが間に入ってくれた。最後まで断固として酒を飲まなかった。

もう一つは、説教。俺は、タナカのプッシュエアー式Kar98kを持っていった(サイドはWA固定スライドのP-38)。エアタンク全盛期で、俺も8リットルタンクとJACのM16A1、M16A2、バーンズモデルなんかを持ってたが、タンク背負って戦う気はなかった。それと、1発にこだわって戦いたかった。別にスナイパーを気取ったわけでもなく、スコープも持っていなかった。が、それは「良くない」ということだった。「連射がきかない」「パワーがない」。そりゃそうだが、BVでウェイト3個装着して0.3g弾発射する銃を、人には向けられない(時代はパワー自主規制以前の時代)。最初は親切にサバゲーのノウハウを教えてくれる感じだったが、そのうちに相手もイライラし始めて、「単発銃持った人間と組みたくない」「役に立たない」「掩護にならない」と散々言われた。さらに、「サバゲーはチームワーク。個人の主義や思い入れをいちいち取り入れていたら、勝てはしない。」とまで言われた。

その夜、自宅からそのチーム主催者にメールで「自分はゲームに向いていない」と断りを入れた。数日後、そのチーム数人から謝罪のメールが来た。「酒を無理に勧めて悪かった」「装備にケチをつけて悪かった」等々。悪い気はしなかった。悪い人たちではないと思った。

だから、俺はゲームがいやになった。悪い人たちだったら、「チーム」に対してイヤになっただけで、別の自分に合ったチームを探すことになったと思う。が、意見の相違はあっても、人間的にはいい人達ばかりだった。いい人達ばかりだったから、チームではなくサバゲー自体が持つ矛盾点に嫌気がさした。

(2)銃を使って遊ぶか、銃そのものを愛でるか

その後も、いくつかのチームに誘っていただき、体験させてもらった。一様に同じ傾向だった。フルオートでパワーがあって弾数が多い・・・これを追求していくと、別にエアガンでなくてもよい訳で、実際、M16のバットストックを外している人もいた。実銃ではあり得ない。リコイルバッファが入った筒があるため、M16系の銃からバットストックを完全に外すことは不可能だ。が、そういったことには無頓着。さらに、「反動のないエアガンにストックは不要」と。確かにそうだけど、じゃぁ、やっぱ、GUNである必要はないよね。

今でも2ちゃんねるなんかで「リアル弾数派」と「多弾数派」が議論してたりするけど、どこまでリアルさを追求し、どこから妥協するか、難しいと思う。というか、「反動ない」「弾に威力ない(実銃比)」模造ガンの場合、サブマシンガンとライフルの射程の違いが大して無いという事態も起きてしまい、「何故その銃がその形をしているのか」と、模造銃の存在意義さえ疑問対象になってしまう。外見はホンモノによく似ていてリアルなのだが、その銃の特性は活かされない。

こうしたトイガンの持つ現実・・・「所詮はおもちゃ」という点が、サバゲを行っていると実感されてくる。
俺は何故この趣味を続けているのか?銃が好きだからだ。
何故銃が好きなのか?好き嫌いに理由など無い。
銃の何が好きなのか?形とかメカニズムとか背景とか。

トイガンであっても、撃てば楽しい。威力など無くても、狙ったところへ弾が飛んでいけば嬉しい。でもそれ以上に、その銃の誕生や、活躍した時期の歴史的背景などを、実物とほぼ同じ形をしたトイガンを手にすれば、より身近に感じることができるし、映画の1シーンの中へも入っていける。

サバゲで「実際に闘いという緊張感の中で」銃を手にした感想は、「滅茶苦茶楽しかった」。部屋でトイガンを手にして、脳内で戦場を再現するよりも、遙かに楽しかった。やられるかもしれないという「緊張感」と、敵を仕留めたときの「達成感」は、絶対に部屋の中では得られないものであった。また、俺が体験したチームの人たちに、悪人はいなかった。だから俺は、サバゲーを否定しない。

が、同時に、サバゲーやってると、上に書いたようなトイガンの矛盾点を目の当たりにさせられる「お前の手にしているのは、おもちゃだ!」という事実を突きつけられる。俺はKar98kで戦いたい。今なら三八式歩兵銃で戦いたい。確かにボルトアクションの優遇措置(救済措置)があるチームでもやってみたけど、BVや(当時登場し始めた)電動の方が断然有利。しかも、ボルトアクションの優位性・・・長射程の精密射撃の優位性など皆無。UZIですら、パワーアップの改造がして無くても、バレル周りのチューニングだけで、ボルトアクションの長ものと大して変わらない射程。2発目以降の修正射を考えると、ボルトアクションの意義は無し。

ボルトアクションなんて、一部のスナイパー品質で、射手の腕が良くない限り、実銃でも同じ状況なのは理解できる。だから、ボルトアクションで「不利だからイヤだ」と言っているのではない。・・・銃の選別の意味が感じられない、そこがイヤになる原因だ。

銃の形は、全て機能的な意味がある。基本的に、見た目のためだけのデザインはあり得ない(エングローブとか刻印とかは除外)。が、トイガンにはそうした必然性はない。実銃の模倣だから、あの形になっているだけ。だから、日本車と同じだ。エンジンとボディを別々の部門で作成し、合体させる。だから俺的には好きじゃない。俺にとっての車とは、「エンジンを主人としたパワープラント(駆動系含む)に俺、これだけの世界」だ。エンジンを総合デザインの中心において、ボディ等の最終決定は、全てエンジンが中心に行われる・・このような車が「俺的には」最高だ。だから俺はホンダが好きだし、フェラーリやポルシェが好きだ。これらの会社の根本には、「エンジンありき」という思想が流れている。別に、「人間を快適に遠くへ運ぶ、安全なボディ」を中心に設計されている、現在主流の車を俺は否定しない。俺も日常的にはこんな車に乗りたい。が、趣味という観点から見ると、こんな車は「クソ」だ。ケイターハム(ロータス)のSuper7、この車が俺にとっての究極の車だ。人間様よりもエンジンの方が優先されて搭載されている。まさに、走るためだけに生まれた車だ。

だから俺は、「ホンモノに似せたボディ」と「汎用的なパワープラント」という組み合わせのトイガンの側面が大嫌いだ。トイガンとは言え、銃である以上、エンジン部分・・・パワープラントが設計の中心に欲しい。が、それは無理であるし、意味もない。それはよく理解している。・・・だから、サバゲーをしたくない。トイガンのそうした生まれ持った宿命部分を、有無を言わさず直視させられるから。

どうせ趣味なんだから、「幻想の世界」に浸れる「コレクション」「室内」の方が、いくら緊張感や達成感が得られなくても、俺は好きだ。サバゲーで現実を見せつけられ続けて、銃そのものを「これはホンモノだ」と「脳内変換」できなくなってしまうのはイヤだ。

 

(3)人に銃口を向けられなくなった

ガキの頃、コンバットをはじめとした一連の戦争シリーズをテレビで見て育った俺の中には、自然と「独逸兵は悪い奴」という既成概念ができあがっていた。「悪い奴らだから、殺されて当然」とも思っていた。

が、思春期に反発しまくり、その人生を否定しまくったオヤジに対して、「オヤジにもガキの頃や若い頃があり、生活があり、苦労があった」ことが分かってくるに従って、「家族」というものを、真面目に考えるようになった。すると、アル中であっても、下品であっても、オヤジなりの愛情が存在したし、現在も存在していると言うことが理解できるようになってきた。

すると、戦争映画などで兵隊さん達がバタバタと殺されていくのを見ていて、「彼らにも家族があるんだ」「残された家族はどう感じるだろうか」「家族を残して死んでいく兵隊さんたちの気持ち、無念さはいかばかりか」ということが見えてくるようになった。BOBで、自軍の陣地から少し離れたところへ小便でもしに行った独逸兵が、ガーランドを構えている米兵を目にして、双方一瞬凍り付く場面があった。俺はその瞬間、「見逃せ!相手(独逸兵)は銃も持っていない!しかもどう見ても子供!」と叫んでしまった。が、米兵はガーランドの引き金を引いた。

いや、分かっている。戦争だから、躊躇したら次に殺されるのは自分だ。だから機会があったら一人でも多くを殺す、それが戦争だ。戦争できれい事は言っていられない。戦争の経験もなく、その場の戦闘に参加していない俺に、ガーランドの引き金を引いた米兵を責める権利はない。

戦争論、騎士道、武士道、合理主義・・・いろんな言葉が渦巻くこの方面を、俺は是非を目的で語りたくない。あまりにも重く、苦しいジャンルだ。しかし、俺は残念ながら戦争野や銃が好きだ。いや、「脳内で繰り広げられる」「戦死者は家族を心残りにしないし、戦死者の家族も苦しまない」そういう戦争と銃が好きだ・・・つまり、映画等の世界での戦争と銃が好きだ。決して現実社会の戦争と銃は好きになれない。

だから俺はトイガンが好きだ。殺傷能力はなく、現実的な戦争とは無関係だからだ。もし実銃が持てる国にいても、俺は実銃は持たないと思う。

そんな自分だが、サバゲーを経験したときには、ほとんどその様な事は関係なかった。実際、「これはおもちゃを使った遊び。誰も死にはしない。」と割り切っていた。しかも、自分の選んだ銃がボルトアクションだったこともあり、BV装備の相手に接近戦に持ち込まれたら負けてしまうので、相手のいると思われる付近の長距離射撃に終始していたり、回り込まれて敵の姿も見ないうちにヒット取られたりした。だから、この段階では結構楽しめた。

が、ある日、味方の攻勢によって共に前進した俺は、アンブッシュに遭遇した。それでも味方の背後から援護する形での前進であったから、まさか自分が接近戦をとっさに行うとは予想だにしていなかった。先に気づいたのは俺だ。俺の先を進む味方を背後から狙う、敵の背後に自分がいた。フリーズコールがかけられるような距離ではない。とっさに銃を構えた俺だったが、その瞬間、その敵が振り返って俺を見た。フルフェイスのゴーグルの奥の目が大きく見開かれた。その敵の銃はまだ前方に向けられ、俺の銃はその敵の胸を既に狙っている。敵がそこで状況を察し、ヒットコールしてくれれば、何事もなかったと思う。が、敵は銃を俺の方に向けた。もし俺の銃がフルオートだったら、ノマグ1個分を撃ち尽くすほど、長い時間に感じられた(実際には1秒以下だろう)。なのに俺は引き金が引けなかった。別に顔を狙っているわけでもなく、距離も胴体に当たっても痛いと感じるような至近距離ではない。そういう意味ではなく、俺は撃てなかった。俺の方が撃たれた。何故かホッと解放された気分でヒットコールした。

ゲーム後の懇親会で、その敵から「何故撃たなかったのか」と質問されたが、「弾切れだった。銃を向けたのは、観念して降参するかもしれない可能性にかけた」と言い訳しておいた。当然事実は違い、いつでも撃てる状態だった。

相手の顔がはっきり見える距離では引き金が引けない、そんなヘタレな人間はゲームなどできない。

違法に場所を占拠したり、ゴミを散らかして放置したり、自然を必要以上に破壊したりするような極悪チームは別問題として、俺はサバゲーをやっている人たちを否定しない。もう一つの趣味である車で、峠をD気取りで平気で対向車線はみ出してブラインドコーナーへ突っ込んでくる馬鹿共よりも、人殺しの兵器と同じ形をしたおもちゃで遊ぶサバゲーの方が、健全だと思っている。

ちなみに、田舎である俺の地元は、イニDに出てくるような峠自体が俺の生活の本拠だ。事実地元にはそれらしい峠もいくつかあり、俺も若い頃は午前2時過ぎになると出動したりした。それでも、万が一を考えて、ブラインドコーナーでは対向車線を犯さなかった。今では、イニD効果プラス馬鹿共の大量出現で、午後9時前という「まだ地元住民の生活時間」でも、平気でブラインドからこちらの車線上を(!)こちらへ突っ込んで来る馬鹿がいる。ほぼ例外なく地元の車ではなく、遠征組だ。上手ければ避けられもするだろうが、わざわざタイムを落としてまで「荷重移動ではなくパワーのみで」尻を振って突っ込んでくるので、こちらが避けなければ相手に回避行動など不可能だ。

結論。俺はサバゲーをしない、いや、できない。俺はサバゲーを否定しない。俺は室内派だ。俺は脳内派だ。