明治22年に制式採用された村田連発銃を騎兵用に短くしたものです。二十二年式小銃は、それまでの単発式で黒色火薬を使用していた十三年式、十八年式(口径11mm)から、口径を8mm、無煙火薬を使用し、連発式に改良されました。この十八年式から二十二年式への移行は、なんとたったの4年間で、よくこの短期間でこの急激な進化ができたなぁ、と感心させられます。
単発式はスナイドルからの移行でなんとなくイメージできるのですが、両者を比べてみると単発式から連発式への移行は、劇的な変化であったと思われます。しかし、二十二年式は生産数が少なく、弾薬の再装填に手間取ることから、使用する兵士にも評判が悪く多くが海外へ輸出されたり、廃銃にされたことなどにより現存数が著しく少なく、正確な姿と言うものは、なかなか伝わってきません。しかし、現物を入手して良く観察してみると、技術的に大きな飛躍があったのだと思います。
二十二年式騎兵銃は、サイズ的には後の三十年式騎兵銃とほぼ同一です。しかし、銃身の下にチューブ式の弾倉をもつことから、少し太めに見えます。歩兵銃ではストックの左手があたる部分(リヤサイトの下くらい)にチェッカリング?が施してありますが、騎兵銃ではこれが無いために少しのっぺりして見えます。
ボルト側面?のネジはボルトストッパーを固定するためのネジで、これをはずすと上部の部品が外れ、ボルトを引き出せるようです。無可動なので当然動きませんが・・・。ボルトの前方は別部品になっており、ボルトは本体とヘッドに分解できます。現存する二十二年式では、ヘッドが欠品しているものがかなりあります。
レシーバー上部にはガス抜き穴が2つと、小さめの菊紋があり、三十年式以降標準となる「形式表示、三十年式とか三八式」はレシーバーの側面に刻印されています。左に「大日本帝国村田連発銃 東京砲兵工廠小銃製作所」とあり、右側に「明治二十二年制定」とあります。二十二年の字の下にあるレバーはマガジンカットオフレバーで、縦か横にすると弾倉へのアクセスをカットすることができます。文献によれば、余裕があるときには単発銃として使用し、急射撃が必要な時には弾倉の弾を使うのだとか。面白い発送ですが、当時(日清戦争期)の戦闘の様相がうかがい知れます。ちなみに、日露戦争では二十二年式は海軍艦艇警備、陸戦隊、砲兵、輜重兵などによって使用されたようで、当時の写真に見ることができます。
リヤサイトの下の数字(65432)はシリアル番号のように思えますが、これは遊標をスライドさせて、タンジェンド式に使用する際の目印です。さらに遠距離を狙う時は、リーフ自体を起こします。
二十二年式騎兵銃にはハンドガードが無く、銃身は上部が露出しています。フロントバンドには銃剣用のラグはなく、すっきりとしています。
フロントサイト側面に打撃傷がありますが、実はこれが私の大失敗した部分です。フロントバンドの組み込み方が非常に巧みになっており、(これは文章では説明できません!)無可動処理をお願いしたアメリカのガンスミスがこともあろうに、フロントサイトを一回外してくれてしまったのです!銃にとって非常に重要なフロントサイトがおいそれと外れるわけが無く(しかも騎兵銃ですよ、振動に強くがっちり製作されていますがな)、ハンマーで叩いたんだろうなぁ〜、という打撃痕を残してくれています。日本の税関で通関手続きをして持ち帰って、箱の中にフロントサイトが転がっていたのを見たときには「・・・。」でした。
気を取り直して、続けます。
ストック後部のバットプレートにはスライド式の扉が付いており、中にクリーニングロッドが収納できるようになっています。後の四四式では大分改良されています。四四式では銃身下が銃剣によって占領されたために、二十二年式では弾倉に占領されたためにストックへの収納になったようです。ストックは三十年式以降日本軍のスタンダードとなる上下2分割タイプではなく、一体のままです。
また、騎兵銃は例によって仕上げに気が使われていたせいなのか、この二十二年式騎兵銃も非常に綺麗な仕上げが施されています。画像にてご確認ください。
最後に、以前、六研の故ムトベさんのところにお邪魔した時、「ビンテージシリーズ(本HPでも紹介されている九四式など)で二十二年式を出すんだよ」と言って、歩兵銃のストックを見せてもらいました。「原型はすでにできているんだけどね、売れないと思ってね」と言っていましたが、すでに他界された今となってはこの二十二年式は幻になってしまったんでしょうね。きっと、あの作業部屋兼事務所のどこかに埋もれているんでしょうね。KTWさんにぜひ商品化してもらいたいです。